<   2012年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

ダウン症国際連合の動き

ダウン症国際連合 International Federation of Down's syndrome Organizationsが、欧州裁判所に対して、新しい出生前診断に反対し、ダウン症のある人の人権を守る必要性についての訴えを提出したとのニュースが流れている。

http://www.france24.com/en/20120729-controversial-downs-syndrome-testing-gets-swiss-go-ahead

しかし、International Federation of Down's syndrome Organizations自体は、ウェブサイトを持っていないのか、実態をつかむことができない。

これは、Stop Eugenics Now であることを、今日教えて頂いた。
http://stopeugenicsnow.org/

ここで問われているのは「人権」だ。

ただ、ある集団の「人権」を公的に問うことにはリスクが伴う。
なぜなら、公的に、「人権」が否定される可能性があるからだ。

そんな可能性のあること自体、問題の根深さを露呈しているが。

この状況の中では、人の忘れがちなことを重点的に訴えて行く必要があるだろう。


「胎児がダウン症であっても産んでもいい」

「ダウン症があっても産まれてきてもいい」


どんな子どもであっても、産まれてきたことを喜ぶ自由が親にはある。
[PR]
by m_mw | 2012-09-11 17:37 | 考えていること・thoughts

技術と倫理の間で

誤解を恐れずに言えば、技術について語ることは容易い。
そのしくみは、いずれは誰にでも説明することが可能になる。
今の社会において、その技術がどのように利用されるべきか、という問いに対しても、
ある程度の回答を用意することは、困難ではない。

民主的な社会であろうとするならば、どのような事柄についても、社会にある限界の中で、最終的には自己決定を尊重することが求められる。
社会は、そのための支援を、個人に提供しなければならない。

けれども、自己決定を尊重することと、個々人が幸福になることや、社会がより善い方向に発展することとは、別の問題だ。
自己決定の結果として人生が暗転することもあれば、社会にとって最悪のリーダーを選んでしまう場合のあることを、私たちは個人としても集団としても、経験してきた。
特に、後者については、それが私たちの「自己決定」の結果であったが故に、
私たちは深い集団的反省を迫られてきた。

今、(いまだに)私たちに課せられている最も困難な課題は、
「個人の自由を尊重しながら、より善い社会を希求するには、どうすればよいのか」、ということではないか。
今も、私たちはこの課題に関連する、大小様々な事象に直面している。

私なりのこの問いへの、今のところの答えは、「より善い社会」の側を地道に整備していく、というものだ。
そのためには、「より善い社会とは何か」という問いについて、これまでに私たちが出してきた答えを尊重しながら発展させ、具体化していく必要がある。

この作業なくして語られる、技術の使い方に関する「べき論」は、末端で自己決定を批判することにつながりかねない。

自己決定は、それが賛同されるものであれ批判されるものであれ、全て、個人の精神の自由の基で苦しみを伴って生み出されるものである、ということに信頼をおきながら、
そのこととは異なる位相において、より善い社会のあり方を考える作業に、関わって行きたいと思っている。
[PR]
by m_mw | 2012-09-10 10:51 | 考えていること・thoughts
2002年か2005年までのイギリスでの生活の中で、
深く思いでに残っていることとして、
家の目の前の教会での出来事がある。

それは、領主がエリザベス一世に結婚を申し込むために建てたと伝えられるKenilworth城に付属する、したがってKenilworthの町にいくつかある教会の中でも、最も古く大きな教会だった。
(注:言うまでもなく領主は女王にふられた。)

そこで、ある日、町で産まれた赤ちゃんの幼児洗礼があった。
赤ちゃんは毎月産まれているはずなので、幼児洗礼式はその日以外にも行なわれていたのだと思うけれど、
私が深く覚えているのは、その一度の洗礼式である。

洗礼式は、夫婦と赤ちゃんを牧師が祝福し、赤ちゃんの頭に聖水をかける、という簡単なものだ。
聖水をかけると、大抵赤ちゃんは泣くので、それが微笑ましい場面でもある。

私の心に残っているのは、しかし、その後だ。
一通り、儀式が終わると、牧師はそれぞれの夫婦と赤ちゃんを参列者に紹介し、
そして、"Welcome, to our community."
と言う。
そうすると、参列者はいちいち拍手でそれに賛意を示し、赤ちゃんを迎えるのだ。
その風景に、私は痛く感動してしまった。

大きな教会なので、知り合いもいればそうでない人もいる。
長く同じ地域に住んでいる同士ではあっても、普段気軽に話す中の人たちは限られている。
人間どうしだから、いざこざもある。
赤ちゃんになかなか恵まれず辛い人もいるだろう。
そんな中にあっても、産まれてきた赤ちゃんを、皆で「ようこそ」と迎える場がある、ということが、
驚きで、また羨ましかった。

産まれてくる子は、「ようこそ」と迎えたい。
「ようこそ」と迎えてほしい。

そこに、思想の基本を置きたいと、それ以来思っている。
[PR]
by m_mw | 2012-09-07 10:27 | 考えていること・thoughts
ここ最近、母体血中の胎児のDNAを調べて胎児の染色体異常を調べる検査に関するニュースが飛び交っている。
倫理的問題が懸念されると繰り返し強調される。
しかし確定診断ではないにしても、これまでにすでに提供されている検査を通して、間接的にではあるが染色体異常を調べる検査は既に普及している。
受検者数がさらに増加することが予測される以外に、今のところ、倫理的問題の内容はそれらの検査の場合とほぼ、変わらないはずだ。

これまでの議論をふまえれば、この状況において行なわなければならないことはすでに明らかだ。
まずは妊婦に対して適切な情報を適切に伝えること。これに尽きるのではないだろうか。
実際に検査を受ける段階では、医師と遺伝カウンセラーがその役割を担う。

しかし医師に相談する前に、妊婦に知らせるべきこと。
それは、第一に、この検査が「万能ではない」ということだ。
先天性の異常は、染色体異常だけではない。
また出生前にはわからない異常も数多く存在する。
そして言うまでもないが、検査によってわかることは、医学的に定義される「異常」のみであり、胎児が出生後にみせる性格や能力は何一つわからないのだ。
そうしたことは、産まれてみなければなにも、わからない。
メディアは、この点を十分に伝えているだろうか。

たとえば、染色体異常のひとつである「ダウン症」は、名前は良く知られた障害だが、実際にダウン症のある人がそれぞれ「どのような」人たちなのか、ということは、おそらくほとんど知られていない。
「どのような」ということは、個々人で異なるので、知る由もないとも言えるのだが。
メディアが伝える「ダウン症」の姿は、善くも悪くも断片的だ。

それでもなお、検査を受けたいという妊婦には、それぞれの事情があるはずで、最終的判断は、各々が納得して下せる環境が必要だ。

それにしても、ニュースでは検査費用が20万と伝えられる。
アメリカの企業が開発した、いまだ研究段階の検査であるとも伝えられる。
検査することそのものよりも、研究対象のリクルーティングのために、妊婦に無用な不安を与えることに、倫理的問題が懸念されるのではないかと思うが、どうなのだろうか。

かつて神聖な領域として扱われた生殖の過程に、この混乱と喧噪を招いているのは、まちがいなく「人間」である。

まずは、妊娠期が親と子が出会うまでの大切な準備期間であるという観点から、そして出生は社会が個人を迎え入れる最初の門であるという観点からの整備が望まれる。

付け加えれば、そのためには、胎児を人として認識し尊重する思想が必要ではないか。
死産した胎児を、生きて死んだ人と同じように荼毘に付す思想と、それは通じるものだ。
[PR]
by m_mw | 2012-09-07 10:02 | 考えていること・thoughts