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『アンジェロ・マンジャロッティの哲学とデザイン』
場所:イタリア文化会館
期間:〜6月30日

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by m_mw | 2012-06-26 09:28
アンソニー・ドーアの処女作である。b0223593_10452157.jpg

「アメリカ」
それは、外にいる私たちにとって、新世界のパイオニアであり、最強の軍事力であり、科学と技術の最先端である。

けれど、内側から見たアメリカには、雪吹きすさぶ厳しい冬があり、雪解けの水をたたえ流れる川があり、その川の流れ込む豊かな海がある。人はそうした厳しく豊穣な自然の隙間で、互いを理解できない苦しさにもがきながら生きている。

ドーアの短編集『シェル・コレクター』は、「内なるアメリカの視座」を体現している。それは、外にいる私たちが、特に9.11の後によく耳にするアメリカではなく、たとえばヘミングウェイが『老人と海』で表したような静かな生命力を持つ、自然の中にある人間たちのアメリカだ。

私は、ドーアが、この短編集の中で「大学」という場に何度か言及していることに特に興味を覚える。

最初の作品、『貝を集める人』の主人公は、大学の教授職を引退した盲目の老貝学者である。『ハンターの妻』では、主人公の妻が「死者の記憶を見る」超能力を大学の「お偉方」の前で披露する。『ムコンド』では、アフリカの大地を疾走することで解放していたエネルギーの矛先を、オハイオでの陰鬱な生活で失ってしまった不幸せな妻が、大学の「写真初級」のクラスで復活する。

大学は「知」を産み出す場だ。
そして私たちの知る「アメリカ」の土台でもある。
しかし、「自然」は、人間の「本来」の姿は、そこで産み出される知の外側にあるのだということを、ドーアは描いているように思う。

「自然」を生きろ。

そんな声が、この作品からは聞こえる。

理解のできないこと、怒りを覚えること、悲しいこと、切ないこと、滑稽なこと、そうした人の生きることの諸々が、「自然」の中ではこんなにも愛おしい。
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by m_mw | 2012-06-25 10:45
b0223593_1044993.jpgああもうこれは終末だ。
多くの人がそう思ったであろう3.11から1年半が過ぎた。
東京で、日々の生活を営んでいると、メディアを通じて繰り返される映像も、その映像について恐怖と驚きと悲しみのない交ぜになった感情で語り合う人々の姿も、記憶の遠方に位置付けられつつあるのを感じる。

だからなのか、最近ようやく、昨年8月にiアプリとして公開された池澤夏樹の『楽しい終末』を開くことができた。池澤を愛読する者としての義務感から、公開直後にダウンロードしたものの、「序」ですでに目眩を感じ、その後長い間、開くことができなかった作品である。

この作品について、多くの読者が「重い」と評しているが、私の感じた目眩の内実も「あまりに重い」だったように思う。しかしそこには、単なる内容の重さだけではなく、「預言者」的振る舞いに対する「嫌悪の感」も確かに加わっていた。「はじめに」で、池澤自身が「予言者となるつもりはなかった」と述べているにも拘らず、当時は池澤の行為が予言者のそれに見えた。

多くの人命が失われた。私たちは生き残った。生き残った今することが、終末を語ることなのか?失われた命は、終末の先陣だったとでも言うのか?

地下鉄に揺られながら、血の上った頭で、アプリを終了したことを思い出す。

しかし、今回ようやく落ち着いた気持ちで紐解くと、この作品の重要性を実感する。特に、「終末」を検討するためのはじめの素材として、絶滅した部族の物語をとりあげる工夫には、あらためて脱帽する。脱帽すると共に、終末を向かえた先人が、身体的欠乏の中で想像力をも欠いていく様に恐れを抱いた。

その渦中にいる人々がいかに「楽しく」とも、それはやはり欠乏に他ならない。これが池澤の警句だろう。

この作品の中で、池澤は「原子力」以外にも、我々を終末へと導く事例をいくつか挙げている。そのどれもが、私たちが何となく「そうなのではないのか?」と心の片隅で一度は思ったことのあるような事柄だ。しかし、2〜3年の調査に基づき積み重ねられた事実が、この作品に説得性を与えている。作品を科学的にしているとも言える。じゃあ文学じゃなくて科学でいいじゃないか、という考えがあるかもしれない。実際おそらく、ひとつひとつの事柄については、学術誌のどこかで検証されているのだろう。しかし、それらを「人間についての物語」としてまとめることができたのは、これが文学の領域にあるからだ。この作品によって私は、文学の意義を確信するに至った。

多くの実務が必要とされる時、それに携わるひとりひとりが、ミクロ、マクロな「想像力」を保ち続けることができなければ、人は実務に必ず付随する権力闘争の中で目的を見失うだろう。

文学はその「想像力」を培い保つ場を提供している。

これからは『科学技術白書』と共に文学を。

再稼働も決まってしまった今、結構真剣に、そう思う。
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by m_mw | 2012-06-20 10:35 | 読書録・reading memo
b0223593_10464173.jpg角田光代のファンである。
現代日本の病的で雑駁な人間模様を、ポップにもビターにもシリアスにも描くことのできる、言うまでもなく今を代表する女流作家の一人だ。
しかし、短編集『かなたの子』には、彼女のこれまでの作品とは異なる性質を感じる。簡単に言ってしまえばビターに過ぎる、苦い後味だけが残る作品群となっている。

この作品群で角田が描くのは「あの世とこの世の境」であり、「正気と狂気の境」である。これは、多くの文学のモチーフともなっている題材だが、ここに中絶、嬰児殺し、家庭内暴力、虐待、いじめなどの社会問題を関連させている点に、角田の独自性がある(嬰児殺しを題材とする『前世』で描かれる時代や場所は不明だが、貧困による嬰児殺しが慣習化していた時代の日本の一村と思われる。ただし現代においても、根源的には貧困を理由とする嬰児の遺棄は繰り返されており、作品の時代と現代とはつながっている。)

読後に感じることは、「この人たちにとってのあの世がこの世の救いとならないのはなぜなのか」ということだ。

物語の登場人物たちは、誰も、苦しみから解放されない。物語は彼等の孤独な苦しみの内実を確認するだけだ。はじまりの二作『おみちゆき』や『同窓会』は、『おみちゆき』で主人公が目の当たりにする、生きながら棺に入れられた僧侶の現世への未練に代表されるような、暗く重たい孤独の苦しみが描かれる。そう。彼等は皆一様に孤独だ。家族がいる、級友がいる、登山仲間がいる。けれども、そうした人々が彼等の内面に寄せる関心はほとんど描かれない。どの作品も主人公の視点から外れることがないので、それは、主人公自身の関心の表れである。周囲が自分に持つ関心への無関心と言えるだろうか。ごくわずかに表れる時にも、『道理』の朔美が主人公の敬吾に対して持っていたのかもしれない(と敬吾が最後に気付く)病的な関心の形をとってしまう。そうした孤独な主人公の見る「あの世」は恐怖の対象ではあっても、救いの源ではない。あくまでも夫の視点で描かれる『闇の梯子』の中で、妻がむしろ「あの世」に引き込まれ、次第に主人公をも誘うように、孤独は人を現世からあの世へと引き込んでいく。だからこそ、主人公達にとって「あの世」は恐怖なのではないか。

さて、前半の四作の主人公が男性だったのに対して、後半の四作の主人公は女性である。女たちは「産む」。そのことを中心に描かれる四作、『前世』『わたしとわたしではない女』『かなたの子』『巡る』では、過酷な現実の中で、「あの世」からの連なりの中で「現世」に生まれ来て死に行く子等に、「許されている」という感覚を、主人公達が朧ながらも持つ場面が描かれている。「産む」ことは、苦しみの源でもあり、ひとつの「救い」でもある。しかし、女たちもまた、「あの世」と「この世」とが交わる点を体内に宿すからこそ、「あの世」と断絶した「この世」の苦しみをより現実的に引き受けているかのようだ。彼女等の苦しみに関心を示す他者は、作品の中にはやはり表れない。

角田は確かに、この短編集で現代日本の病理の根源を鋭く付いているのかもしれない。それは、多くの優秀な若者を宗教の名を借りた狂気へと導いた事件の原因にもつながる。角田は、この病理の原因を、よく言われるような個人の他者への無関心や、他者からの無関心への絶望、としては描かずに、個人の他者からの関心への無関心として描いているのではないか。だとすれば、その指摘が私たちに与える示唆は大きい。

読後感の悪さは、だから、作品が、現実の社会の息苦しさを写実し過ぎていることによるのかもしれない。

 しかしこの苦しさに解決はあるのか?
 作者の応えを聞いてみたい。
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by m_mw | 2012-06-18 10:36 | 読書録・reading memo

"Memory Wall" by A・Doerr(2011)

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形なきものに形を与え、消え行く幻影を捉えて映し出す、ドーアの筆技にはただ嘆息する他にない。

ドーアが、六つの物語に共通する精緻な場面描写で映し出すのは、記憶、そして痛み。

表題作の『メモリーウォール』と、最後の『来世』では、共に老女の記憶を中心に物語が進むが、これらの物語の背景には恐らく、現在ドーアの母が介護するドーアの祖母の存在がある。
『メモリーウォール』のアルマは、アルツハイマー病で失われ行く記憶を、カートリッジに焼き付けて留める。それは高額な治療法なのだが、記憶は彼女からは失われ、ただカートリッジに残るのみだ。けれどその記憶に興味を示す他者が現れる。記憶につけられた値段によって、物語はミステリーの要素を獲得する。そしてドーアは、その興味の対象をアルマの夫の情熱の対象だった化石とすることで、生物の記憶と人間の記憶という、共に科学の領域で長年扱われてきた豊かなモチーフの上に、純粋さと打算の分かち難さや、善悪の交差という深く人間的テーマを、織り込むことに成功している。いや、それだけではない。舞台が南アフリカであることによって描かれざるを得ない要素が、その他にも盛り込まれている。このように、多層なモチーフを、軽やかに暖かい物語に織り上げた最初の作品は、その後に続く作品群への期待を、否が応に高める。そしてドーアは、その期待を裏切らない。

『生殖せよ、発生せよ』では、不妊に悩むカップルのそれぞれの、『非武装地帯』では、戦地で病に伏す息子の手紙を待つ、妻に裏切られた男の心に、光を当てる。ダムに消えようとする中国の村を舞台に、『一一三号村』で描くのは、「記憶」と「物質」の関係だろうか。主人公は年老いた種屋で、彼女は、「種というのは植物が眠っている間にみる夢なのよ」、という母親の言葉を覚えている。『ネムナス川』の主人公は、両親を失った十五歳の少女だ。語られない悲しみとその共有、目に見えないものを信じるということ。物語の最後に加えられる、彼女をひきとったリトアニアの祖父は英語の、彼女はリトアニア語の過去形を習得した、というさらりとした報告は、言葉の前にある心と、心と言葉の関係とに気づかせる。言葉は光なのだ。そして『来世』は、ヨーロッパのあの悪夢を、自分ではわからない理由で選ばれて生き延びた老女に生き続ける、少女たちの記憶の話だ。老女に残された時間は少ない。表現する手段は失われつつある。その消え行く記憶を引き継ごうとするのは大学生の孫。物語の中では、誰も意識的ではないが、生き残った者は皆、記憶を留める役を担っている。ローゼンバウム医師がエスターに託した思いに読者はゆっくりと気がつくはずだ。エスターは生きて、そして少女たちのもとへ帰って行く。肋骨の浮き出た、身体に合わない服を着た、十一人の少女たちのもとへ。

今描かれるべきことを描いた、歴史に残る名作である。

そして本作の場合、翻訳家の手腕にも触れずにはいられない。
この著作の文章に宿る息づかいは、間違いなく翻訳家の力によるものだ。
「原作の息づかいをそのままに再現しただけ」と彼女が言うとしたら、それは謙遜だろう。
311の後の日本で、「人々の記憶」を描いた名作をこの名訳で読めることの幸せ。
岩本さん、ありがとう。
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by m_mw | 2012-06-13 04:55 | 読書録・reading memo