カテゴリ:読書録・reading memo( 16 )

オリンピックが近い。
ということはパラリンピックも近い。
今年は、この二つの「リンピック」の間を横断する選手が登場するかもしれない。
その名は、オスカー・ピストリウス。
義足のランナーである。
健常者をしのぐその走りから「サイボーグ」の異名を持つ彼は、400mでは惜しくも大会出場タイムを出すことができなかったが、1600mリレーに選ばれる可能性が残されているらしい。
既に2011年には世界陸上への出場を果たしているが、スポーツの祭典にも革新をもたらすか、注目を集めるところだ。

それにしても、何故人はこうも走ることに熱中するのだろうか。
人にとって走るとは何なのだろうか。
理由はわからないけれども、胸打つ何かがあるのだろうと思わずにはいられない小説に、佐藤多佳子の『一瞬の風になれ』(2007)がある。
その後に続く、「走る小説」の先駆けとも言える、青春小説である。

主人公は高校生の男子二人。
走りの天才と、サッカー選手への夢に破れた努力家。
二人を中心に、走ることに青春の全てをかける陸上部員達の成長が描かれる。
舞台となる相模原の牧歌的風情が、彼等の切磋琢磨を清々しく見せていたように記憶している。

持って生まれた才能を見せつけられながら、自分の限界に挑戦することをあきらめないこと。
そんな青いテーマが、男子特有のユーモアに包まれた物語に仕上げられている。

読んだ当時、相模原に住んでいたので、とにかくはまりました。
で、『一瞬の風になれ』中毒にかかっていたある日、電車で聞いたんです。
「まじ、いいよね。『一瞬の風になれ』。次の巻早く買いたい。」
って、中学生の女の子が言うのを。

確かに、文体はヤングアダルトすれすれよね、と、大人きどりだった私は、ちょっぴりショックをうけてしまった。
でも、いいのです。良いものは良いのだから。
しかも、私大人だから3巻大人買いだぜ、なんて、心の中で威張ってみたり。
(大人??)

佐藤多佳子は、青春を描くのがうまい。
多分、人の矛盾や限界に出会ったばかりの柔らかい心の葛藤を、捉え続けているからだろう。
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時々、そんな世界に触れたくなると、彼女の作品を紐解いてみる。
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by m_mw | 2012-07-03 01:18 | 読書録・reading memo
b0223593_1044993.jpgああもうこれは終末だ。
多くの人がそう思ったであろう3.11から1年半が過ぎた。
東京で、日々の生活を営んでいると、メディアを通じて繰り返される映像も、その映像について恐怖と驚きと悲しみのない交ぜになった感情で語り合う人々の姿も、記憶の遠方に位置付けられつつあるのを感じる。

だからなのか、最近ようやく、昨年8月にiアプリとして公開された池澤夏樹の『楽しい終末』を開くことができた。池澤を愛読する者としての義務感から、公開直後にダウンロードしたものの、「序」ですでに目眩を感じ、その後長い間、開くことができなかった作品である。

この作品について、多くの読者が「重い」と評しているが、私の感じた目眩の内実も「あまりに重い」だったように思う。しかしそこには、単なる内容の重さだけではなく、「預言者」的振る舞いに対する「嫌悪の感」も確かに加わっていた。「はじめに」で、池澤自身が「予言者となるつもりはなかった」と述べているにも拘らず、当時は池澤の行為が予言者のそれに見えた。

多くの人命が失われた。私たちは生き残った。生き残った今することが、終末を語ることなのか?失われた命は、終末の先陣だったとでも言うのか?

地下鉄に揺られながら、血の上った頭で、アプリを終了したことを思い出す。

しかし、今回ようやく落ち着いた気持ちで紐解くと、この作品の重要性を実感する。特に、「終末」を検討するためのはじめの素材として、絶滅した部族の物語をとりあげる工夫には、あらためて脱帽する。脱帽すると共に、終末を向かえた先人が、身体的欠乏の中で想像力をも欠いていく様に恐れを抱いた。

その渦中にいる人々がいかに「楽しく」とも、それはやはり欠乏に他ならない。これが池澤の警句だろう。

この作品の中で、池澤は「原子力」以外にも、我々を終末へと導く事例をいくつか挙げている。そのどれもが、私たちが何となく「そうなのではないのか?」と心の片隅で一度は思ったことのあるような事柄だ。しかし、2〜3年の調査に基づき積み重ねられた事実が、この作品に説得性を与えている。作品を科学的にしているとも言える。じゃあ文学じゃなくて科学でいいじゃないか、という考えがあるかもしれない。実際おそらく、ひとつひとつの事柄については、学術誌のどこかで検証されているのだろう。しかし、それらを「人間についての物語」としてまとめることができたのは、これが文学の領域にあるからだ。この作品によって私は、文学の意義を確信するに至った。

多くの実務が必要とされる時、それに携わるひとりひとりが、ミクロ、マクロな「想像力」を保ち続けることができなければ、人は実務に必ず付随する権力闘争の中で目的を見失うだろう。

文学はその「想像力」を培い保つ場を提供している。

これからは『科学技術白書』と共に文学を。

再稼働も決まってしまった今、結構真剣に、そう思う。
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by m_mw | 2012-06-20 10:35 | 読書録・reading memo
b0223593_10464173.jpg角田光代のファンである。
現代日本の病的で雑駁な人間模様を、ポップにもビターにもシリアスにも描くことのできる、言うまでもなく今を代表する女流作家の一人だ。
しかし、短編集『かなたの子』には、彼女のこれまでの作品とは異なる性質を感じる。簡単に言ってしまえばビターに過ぎる、苦い後味だけが残る作品群となっている。

この作品群で角田が描くのは「あの世とこの世の境」であり、「正気と狂気の境」である。これは、多くの文学のモチーフともなっている題材だが、ここに中絶、嬰児殺し、家庭内暴力、虐待、いじめなどの社会問題を関連させている点に、角田の独自性がある(嬰児殺しを題材とする『前世』で描かれる時代や場所は不明だが、貧困による嬰児殺しが慣習化していた時代の日本の一村と思われる。ただし現代においても、根源的には貧困を理由とする嬰児の遺棄は繰り返されており、作品の時代と現代とはつながっている。)

読後に感じることは、「この人たちにとってのあの世がこの世の救いとならないのはなぜなのか」ということだ。

物語の登場人物たちは、誰も、苦しみから解放されない。物語は彼等の孤独な苦しみの内実を確認するだけだ。はじまりの二作『おみちゆき』や『同窓会』は、『おみちゆき』で主人公が目の当たりにする、生きながら棺に入れられた僧侶の現世への未練に代表されるような、暗く重たい孤独の苦しみが描かれる。そう。彼等は皆一様に孤独だ。家族がいる、級友がいる、登山仲間がいる。けれども、そうした人々が彼等の内面に寄せる関心はほとんど描かれない。どの作品も主人公の視点から外れることがないので、それは、主人公自身の関心の表れである。周囲が自分に持つ関心への無関心と言えるだろうか。ごくわずかに表れる時にも、『道理』の朔美が主人公の敬吾に対して持っていたのかもしれない(と敬吾が最後に気付く)病的な関心の形をとってしまう。そうした孤独な主人公の見る「あの世」は恐怖の対象ではあっても、救いの源ではない。あくまでも夫の視点で描かれる『闇の梯子』の中で、妻がむしろ「あの世」に引き込まれ、次第に主人公をも誘うように、孤独は人を現世からあの世へと引き込んでいく。だからこそ、主人公達にとって「あの世」は恐怖なのではないか。

さて、前半の四作の主人公が男性だったのに対して、後半の四作の主人公は女性である。女たちは「産む」。そのことを中心に描かれる四作、『前世』『わたしとわたしではない女』『かなたの子』『巡る』では、過酷な現実の中で、「あの世」からの連なりの中で「現世」に生まれ来て死に行く子等に、「許されている」という感覚を、主人公達が朧ながらも持つ場面が描かれている。「産む」ことは、苦しみの源でもあり、ひとつの「救い」でもある。しかし、女たちもまた、「あの世」と「この世」とが交わる点を体内に宿すからこそ、「あの世」と断絶した「この世」の苦しみをより現実的に引き受けているかのようだ。彼女等の苦しみに関心を示す他者は、作品の中にはやはり表れない。

角田は確かに、この短編集で現代日本の病理の根源を鋭く付いているのかもしれない。それは、多くの優秀な若者を宗教の名を借りた狂気へと導いた事件の原因にもつながる。角田は、この病理の原因を、よく言われるような個人の他者への無関心や、他者からの無関心への絶望、としては描かずに、個人の他者からの関心への無関心として描いているのではないか。だとすれば、その指摘が私たちに与える示唆は大きい。

読後感の悪さは、だから、作品が、現実の社会の息苦しさを写実し過ぎていることによるのかもしれない。

 しかしこの苦しさに解決はあるのか?
 作者の応えを聞いてみたい。
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by m_mw | 2012-06-18 10:36 | 読書録・reading memo

"Memory Wall" by A・Doerr(2011)

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形なきものに形を与え、消え行く幻影を捉えて映し出す、ドーアの筆技にはただ嘆息する他にない。

ドーアが、六つの物語に共通する精緻な場面描写で映し出すのは、記憶、そして痛み。

表題作の『メモリーウォール』と、最後の『来世』では、共に老女の記憶を中心に物語が進むが、これらの物語の背景には恐らく、現在ドーアの母が介護するドーアの祖母の存在がある。
『メモリーウォール』のアルマは、アルツハイマー病で失われ行く記憶を、カートリッジに焼き付けて留める。それは高額な治療法なのだが、記憶は彼女からは失われ、ただカートリッジに残るのみだ。けれどその記憶に興味を示す他者が現れる。記憶につけられた値段によって、物語はミステリーの要素を獲得する。そしてドーアは、その興味の対象をアルマの夫の情熱の対象だった化石とすることで、生物の記憶と人間の記憶という、共に科学の領域で長年扱われてきた豊かなモチーフの上に、純粋さと打算の分かち難さや、善悪の交差という深く人間的テーマを、織り込むことに成功している。いや、それだけではない。舞台が南アフリカであることによって描かれざるを得ない要素が、その他にも盛り込まれている。このように、多層なモチーフを、軽やかに暖かい物語に織り上げた最初の作品は、その後に続く作品群への期待を、否が応に高める。そしてドーアは、その期待を裏切らない。

『生殖せよ、発生せよ』では、不妊に悩むカップルのそれぞれの、『非武装地帯』では、戦地で病に伏す息子の手紙を待つ、妻に裏切られた男の心に、光を当てる。ダムに消えようとする中国の村を舞台に、『一一三号村』で描くのは、「記憶」と「物質」の関係だろうか。主人公は年老いた種屋で、彼女は、「種というのは植物が眠っている間にみる夢なのよ」、という母親の言葉を覚えている。『ネムナス川』の主人公は、両親を失った十五歳の少女だ。語られない悲しみとその共有、目に見えないものを信じるということ。物語の最後に加えられる、彼女をひきとったリトアニアの祖父は英語の、彼女はリトアニア語の過去形を習得した、というさらりとした報告は、言葉の前にある心と、心と言葉の関係とに気づかせる。言葉は光なのだ。そして『来世』は、ヨーロッパのあの悪夢を、自分ではわからない理由で選ばれて生き延びた老女に生き続ける、少女たちの記憶の話だ。老女に残された時間は少ない。表現する手段は失われつつある。その消え行く記憶を引き継ごうとするのは大学生の孫。物語の中では、誰も意識的ではないが、生き残った者は皆、記憶を留める役を担っている。ローゼンバウム医師がエスターに託した思いに読者はゆっくりと気がつくはずだ。エスターは生きて、そして少女たちのもとへ帰って行く。肋骨の浮き出た、身体に合わない服を着た、十一人の少女たちのもとへ。

今描かれるべきことを描いた、歴史に残る名作である。

そして本作の場合、翻訳家の手腕にも触れずにはいられない。
この著作の文章に宿る息づかいは、間違いなく翻訳家の力によるものだ。
「原作の息づかいをそのままに再現しただけ」と彼女が言うとしたら、それは謙遜だろう。
311の後の日本で、「人々の記憶」を描いた名作をこの名訳で読めることの幸せ。
岩本さん、ありがとう。
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by m_mw | 2012-06-13 04:55 | 読書録・reading memo
絶望の淵から希望へと至る「新生児の父親」バード27歳の「個人的体験」の軌跡。
長男誕生をめぐる著者の体験に基づく一連の作品のひとつである。

バードが、(本人にとっては)希望へと至る道を選択する瞬間、絶望の淵で依存した、またある意味では救いであった存在を捨たことに無自覚である(かのように描かれている)ところに、倫理の二面性が表されているのではないか。

選択することは捨てることであるという、単純な真理が描かれているに過ぎない、とも言える。

けれども、絶望と希望という二極に対応するかたちで、バードというあだ名に象徴される「子ども」の次元と「大人」の次元、あるいは火見子との「反道徳的関係」と妻との「家庭」を置くことで、著者が表そうとする「捨てられるもの」と「選ばれるもの」の価値に、簡単に賛成することができない時代にあって、単純な真理はそう単純ではない。

それでも選びとって行くための指標を、主人公が、彼が「個人的体験」の外で行った唯一の活動の中で見いだす場面は、著者の「ヒロシマノート」における体験と重なる。

"this poor little thing!"

そしてデルチェフさんは、「希望」ということばを、バードに贈り、
バードは「忍耐」ということばを、それにつないだのだった。

彼に似た息子を前に。
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by m_mw | 2011-09-21 22:09 | 読書録・reading memo

タテタカコ

久しぶりに聞きたくなった。
泣けた。
泣けてよかったと、なぜか思った。



売らんかなの世界にまだ確かにこういう場所があって、
それが日本だということが嬉しい。
でもきっと世界中にひっそりと、こういう場所が実はあって、
疲れた人を守っているんだと思う。
一人の表現がそういう場所を作っている。
そのことを思う時、やはり私は、一人の人の誕生ほどにすばらしいことはないと思う。
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by m_mw | 2011-09-10 18:04 | 読書録・reading memo
佐々木正人『知性はどこに生まれるか ーダーウィンとアフォーダンスー』講談社現代新書(1996)。
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by m_mw | 2011-08-30 06:28 | 読書録・reading memo
Inception

監督:クリストファー・ノーラン
キャスト:レオナルド・ディカプリオ、エレン・ペイジ、渡辺謙、ジョゼフ・ゴードン・レヴィット、マリオン・コティヤール、トム・ハーディ、トム・ベレンジャー、キリアン・マーフィ
ジャンル:SF

ターゲットの夢の中に入り込んでアイデアを植え付けるという方法で無意識を支配し、ターゲットを操作する技術をテーマにしたSF。夢の中の夢を三階層まで設定し、現実世界で夢が覚めるまでをタイムリミットに、手に汗握るアクションを繰り広げる。多分、話題になったのはこの設定の緻密さ故。
本当にその方法で、渡辺謙演じるクライアントの要求どおり、現実世界でのターゲットの行為を操作できるのか、とか、効果に対して労力とリスクが大き過ぎないかとか、考えはじめてはいけない。
役のしょぼさの割に気になる存在感のキリアン・ マーフィーは、『麦の穂を揺らす風』の主役だったと知り、納得。アイルランドのジョニー・ デップ。
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by m_mw | 2011-08-29 22:56 | 読書録・reading memo
酒井・浦野・前田・中村(2009)『概念分析の社会学』ナカニシヤ出版。

Hackingの「ループ効果」を、事例検討を通して紹介する。
いくつかの事例ごとに「ナヴィゲーション」がついて、徐々に「ループ効果」についての理解が深まる。
Hackingを読むだけでは十分に理解できない概念の内容と用法を学べる。
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by m_mw | 2011-07-26 16:22 | 読書録・reading memo
ルーマン・N (2009) 『社会の科学』法政大学出版局。(1990 Die Wissenschaft Der Gesellschaft)

... 途中...

観察とは分類すること。
コミュニケーションも分類すること。
知識とは分類された世界である。 (多分。。)
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by m_mw | 2011-07-26 16:17 | 読書録・reading memo