カテゴリ:考えていること・thoughts( 15 )

ダウン症国際連合の動き

ダウン症国際連合 International Federation of Down's syndrome Organizationsが、欧州裁判所に対して、新しい出生前診断に反対し、ダウン症のある人の人権を守る必要性についての訴えを提出したとのニュースが流れている。

http://www.france24.com/en/20120729-controversial-downs-syndrome-testing-gets-swiss-go-ahead

しかし、International Federation of Down's syndrome Organizations自体は、ウェブサイトを持っていないのか、実態をつかむことができない。

これは、Stop Eugenics Now であることを、今日教えて頂いた。
http://stopeugenicsnow.org/

ここで問われているのは「人権」だ。

ただ、ある集団の「人権」を公的に問うことにはリスクが伴う。
なぜなら、公的に、「人権」が否定される可能性があるからだ。

そんな可能性のあること自体、問題の根深さを露呈しているが。

この状況の中では、人の忘れがちなことを重点的に訴えて行く必要があるだろう。


「胎児がダウン症であっても産んでもいい」

「ダウン症があっても産まれてきてもいい」


どんな子どもであっても、産まれてきたことを喜ぶ自由が親にはある。
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by m_mw | 2012-09-11 17:37 | 考えていること・thoughts

技術と倫理の間で

誤解を恐れずに言えば、技術について語ることは容易い。
そのしくみは、いずれは誰にでも説明することが可能になる。
今の社会において、その技術がどのように利用されるべきか、という問いに対しても、
ある程度の回答を用意することは、困難ではない。

民主的な社会であろうとするならば、どのような事柄についても、社会にある限界の中で、最終的には自己決定を尊重することが求められる。
社会は、そのための支援を、個人に提供しなければならない。

けれども、自己決定を尊重することと、個々人が幸福になることや、社会がより善い方向に発展することとは、別の問題だ。
自己決定の結果として人生が暗転することもあれば、社会にとって最悪のリーダーを選んでしまう場合のあることを、私たちは個人としても集団としても、経験してきた。
特に、後者については、それが私たちの「自己決定」の結果であったが故に、
私たちは深い集団的反省を迫られてきた。

今、(いまだに)私たちに課せられている最も困難な課題は、
「個人の自由を尊重しながら、より善い社会を希求するには、どうすればよいのか」、ということではないか。
今も、私たちはこの課題に関連する、大小様々な事象に直面している。

私なりのこの問いへの、今のところの答えは、「より善い社会」の側を地道に整備していく、というものだ。
そのためには、「より善い社会とは何か」という問いについて、これまでに私たちが出してきた答えを尊重しながら発展させ、具体化していく必要がある。

この作業なくして語られる、技術の使い方に関する「べき論」は、末端で自己決定を批判することにつながりかねない。

自己決定は、それが賛同されるものであれ批判されるものであれ、全て、個人の精神の自由の基で苦しみを伴って生み出されるものである、ということに信頼をおきながら、
そのこととは異なる位相において、より善い社会のあり方を考える作業に、関わって行きたいと思っている。
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by m_mw | 2012-09-10 10:51 | 考えていること・thoughts
2002年か2005年までのイギリスでの生活の中で、
深く思いでに残っていることとして、
家の目の前の教会での出来事がある。

それは、領主がエリザベス一世に結婚を申し込むために建てたと伝えられるKenilworth城に付属する、したがってKenilworthの町にいくつかある教会の中でも、最も古く大きな教会だった。
(注:言うまでもなく領主は女王にふられた。)

そこで、ある日、町で産まれた赤ちゃんの幼児洗礼があった。
赤ちゃんは毎月産まれているはずなので、幼児洗礼式はその日以外にも行なわれていたのだと思うけれど、
私が深く覚えているのは、その一度の洗礼式である。

洗礼式は、夫婦と赤ちゃんを牧師が祝福し、赤ちゃんの頭に聖水をかける、という簡単なものだ。
聖水をかけると、大抵赤ちゃんは泣くので、それが微笑ましい場面でもある。

私の心に残っているのは、しかし、その後だ。
一通り、儀式が終わると、牧師はそれぞれの夫婦と赤ちゃんを参列者に紹介し、
そして、"Welcome, to our community."
と言う。
そうすると、参列者はいちいち拍手でそれに賛意を示し、赤ちゃんを迎えるのだ。
その風景に、私は痛く感動してしまった。

大きな教会なので、知り合いもいればそうでない人もいる。
長く同じ地域に住んでいる同士ではあっても、普段気軽に話す中の人たちは限られている。
人間どうしだから、いざこざもある。
赤ちゃんになかなか恵まれず辛い人もいるだろう。
そんな中にあっても、産まれてきた赤ちゃんを、皆で「ようこそ」と迎える場がある、ということが、
驚きで、また羨ましかった。

産まれてくる子は、「ようこそ」と迎えたい。
「ようこそ」と迎えてほしい。

そこに、思想の基本を置きたいと、それ以来思っている。
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by m_mw | 2012-09-07 10:27 | 考えていること・thoughts
ここ最近、母体血中の胎児のDNAを調べて胎児の染色体異常を調べる検査に関するニュースが飛び交っている。
倫理的問題が懸念されると繰り返し強調される。
しかし確定診断ではないにしても、これまでにすでに提供されている検査を通して、間接的にではあるが染色体異常を調べる検査は既に普及している。
受検者数がさらに増加することが予測される以外に、今のところ、倫理的問題の内容はそれらの検査の場合とほぼ、変わらないはずだ。

これまでの議論をふまえれば、この状況において行なわなければならないことはすでに明らかだ。
まずは妊婦に対して適切な情報を適切に伝えること。これに尽きるのではないだろうか。
実際に検査を受ける段階では、医師と遺伝カウンセラーがその役割を担う。

しかし医師に相談する前に、妊婦に知らせるべきこと。
それは、第一に、この検査が「万能ではない」ということだ。
先天性の異常は、染色体異常だけではない。
また出生前にはわからない異常も数多く存在する。
そして言うまでもないが、検査によってわかることは、医学的に定義される「異常」のみであり、胎児が出生後にみせる性格や能力は何一つわからないのだ。
そうしたことは、産まれてみなければなにも、わからない。
メディアは、この点を十分に伝えているだろうか。

たとえば、染色体異常のひとつである「ダウン症」は、名前は良く知られた障害だが、実際にダウン症のある人がそれぞれ「どのような」人たちなのか、ということは、おそらくほとんど知られていない。
「どのような」ということは、個々人で異なるので、知る由もないとも言えるのだが。
メディアが伝える「ダウン症」の姿は、善くも悪くも断片的だ。

それでもなお、検査を受けたいという妊婦には、それぞれの事情があるはずで、最終的判断は、各々が納得して下せる環境が必要だ。

それにしても、ニュースでは検査費用が20万と伝えられる。
アメリカの企業が開発した、いまだ研究段階の検査であるとも伝えられる。
検査することそのものよりも、研究対象のリクルーティングのために、妊婦に無用な不安を与えることに、倫理的問題が懸念されるのではないかと思うが、どうなのだろうか。

かつて神聖な領域として扱われた生殖の過程に、この混乱と喧噪を招いているのは、まちがいなく「人間」である。

まずは、妊娠期が親と子が出会うまでの大切な準備期間であるという観点から、そして出生は社会が個人を迎え入れる最初の門であるという観点からの整備が望まれる。

付け加えれば、そのためには、胎児を人として認識し尊重する思想が必要ではないか。
死産した胎児を、生きて死んだ人と同じように荼毘に付す思想と、それは通じるものだ。
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by m_mw | 2012-09-07 10:02 | 考えていること・thoughts

病院の外の「ダウン症」

2003年、オーストラリアの新聞に、"Tuesday's Child"と題した手記が掲載された。

ダウン症の子を生んだ直後の病院でのできごとを母親の視点で記した、心に残る文章だった。

そこにはこんな情景が綴られていた。

「私と彼女だけならば、彼女とふたりきりならば、私たちは、生命のはじまりから続くリズムの中に閉じ込められた共生生物のような、母と子でいられた。そこへ白いコートと聴診器の医師たちがやってきて、彼女をつっつき、顕微鏡で彼女の余分な染色体を見るために、カミソリでかかとを削って血を採るのだ。」(Evans, 2003)

ここには、母が「見るもの」と医師の「見るもの」とには違いがあるということが、詩的に表現されている。

けれども、医師の「見るもの」と私たちの「見るもの」は、往々にして混ざり合う。
著者のEvansは、母親の「生」の視点が、医学の視点との間で常にゆらぎ、見えたと思ったものが見えなくなり、見えなかったものが見えてしまう、視点の不確かさも、書き記している。

それはまるで、老婆の中に少女が見えるというあの有名な錯視の絵を見ているかのようだ。

Evansは、手記に記すことで、ゆらぐ視点の中で母の目に確かに見えたものを留めようとしたのかもしれない。
そして、そうだとすれば、ダウン症に限らず障害を持つ子の親が子について表現する行為には、同様の意味があるように思う。

多くの場合は生きるための必要として、医学の中で常に測られ、切り取られ、分類される子ども達に対して、
医学に浸食されない視点が、たしかに自分の中にあるのだという事の確認。

こうした確認は、しかし、障害を持つ親だけに求められるものだろうか。
医学の視点との間で、私たちの社会の「人を見る目」も常に、ゆらいでいるのはないだろうか。
あらゆる生き辛さに「病名」が付く現代において、医学に浸食されない視点を、私たちの社会は失わないでいるだろうか。

障害を持つ子の親の表現する「視点」は、私たちの「視点」への問いかけとなる。
その視点は、生まれてくる人を選ぼうとする視点でもある。

イギリスの親達が主導したShifting Perspectiveには、そんな問いかけがシンプルに表現されている。
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by m_mw | 2012-07-12 17:47 | 考えていること・thoughts
出生前診断を受けることは、個人の自由であり、
その結果を受けて、どんな選択をするかも、個人の自由である。

このことを否定することはできない。

しかし、出生前診断の結果も含めて、選択の基盤となる情報は妥当なのか?
という疑問が、特にダウン症親達の間にはある。

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この根底には、子ども達に関する医療現場での評価と、
実際の子ども達の成長との間に感じる差異があると思われる。

かつて医療現場は、ダウン症の子ども達を社会的に差別する現場でもあった。
そのことを、英国ダウン症協会が"He'll never join the army"(1999) というレポートにまとめている。

(He'll never join the army = 「彼は兵役にはつかないね。」これは実際に親の経験した医師のことばからとっている。その他にも「めがねは必要ないよね」など、親が傷付いた言葉の数々がまとめられている。)

そして時に今でも、医療現場は、そうした場となっている。
こうした状況の中で、新しい出生前診断は、医療現場で提供されようとしている。

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このことについて、米国ダウン症協会は、

・出生前診断の現場で、25%の医師が、妊婦に対するダウン症について説明する際に、ネガティブな情報を強調したり、妊娠を中断することを求めたりしていること、
・出生前にダウン症という診断を受けた妊婦が、医師から、ダウン症に関して不正確、不十分、時に悪意ある説明を受けていること、
・さらに81%の医学生が、教育課程で知的障害を持つ人々についての医学的トレーニングを受けておらず、
・45%の産科医が、出生前診断をどのように提供すべきかに関する適切なトレーニングをほとんど、または全く受けていないと答えていること

という調査結果に基づき、
「安全」「正確」「迅速」とされる、新しい母体血診断法が世に出る前に、医学教育の課程において、ダウン症の出生前診断を家族にどのように伝えるのかについて教育することを求めている。
そのために、協力もしますとも、伝えている。

NDSS Position Paper

英国ダウン症協会も、産科医療の専門家等に向けた教育プログラムを開発している。

Tell It Right, Start It Right.

これは、協会が受けた出生前診断を受けた妊婦や家族からの相談の相談を通して、
医療従事者から適切な情報を得られていないということが明らかになったことではじまったプログラムである。

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出生前診断における「自由な」選択を可能にする、「十分な」情報とは、必ずしも医療者からの情報とは限らない。

むしろ医療者からの情報だけでは、少なくとも今のところ、不十分な場合も多い。

このことは、医療現場において「選択」を行なう妊婦とその家族に、まず必要な情報なのではないだろうか。
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by m_mw | 2012-07-06 15:59 | 考えていること・thoughts
出生前診断の登場以降、その対象としては最も発生頻度の高い「ダウン症」の出生数の推移が、世界で調査されてきました。

昨日お伝えしたSkotko氏の論文は、それらをまとめたものです。
Skotko氏は、世界各地で出生前診断の登場によって、ダウン症の出生数は「抑制」されてきていると指摘しています。

この指摘について、各地の調査を確認してみました。

【イギリス】
Morris, J. and Alberman E. "Trends in Down’s syndrome live births and antenatal diagnoses in England and Wales from 1989 to 2008: analysis of data from the National Down Syndrome Cytogenetic Register."BMJ.339(2009)

データソース:National Down's syndrome Cytogenetic Register

結果:出生前と出生後を合わせたダウン症児の診断数は、1989年から2008年までで71%上昇している。しかし出生数の上昇は1%にとどまっている。診断数が増加している背景には高齢妊娠が増加していることが考えられる。診断数と出生数の差は、出生前診断の普及によるものと考えられる。

【オランダ】
de Graaf, G. et al. "Changes in yearly birth prevalence rates of children with Down syndrome in the period 1986–2007 in the Netherlands." J. Intellect Disabil. Res. 55(5): 462-73 (2011)

データソース:National Cytogenetic Network.

結果:出生数は、1990年代初頭には10000に11だったが、現在では10000に14に上昇している。出生前診断が普及しているにもかかわらず出生数が上がっていることの背景としては、高齢妊娠の増加が考えられる。

【デンマーク】
(1)Laresen, SO. Hansen, J. and Pedersen, BN. "Expected, prenatally discovered, and born cases of Down syndrome in Denmark during the period 1980-1998."Prenatal Diagnosis. 21(8): 630-3. (2001)

データソース:未確認
結果:全妊婦の11.8%が羊水検査を受けているにも関わらず、ダウン症出生の38%しか予防できていない。スクリーニング検査を受けないことが、年間300件のダウン症出生数に影響している。

(2)Ekelund, CK. et al. "Impact of a new national screening policy for Down’s syndrome in Denmark: population based cohort study. "BMJ337:a2547(2008)

データソース:19の産婦人科とCentral Cytogenetic Registry 2000-7.
結果:ダウン症の出生数は、2000年から2004年までは55から65件だったが、2005年には31件に減り、2006年には32件だった。スクリーニングによる検出率(detection rate)は2005年は86%、2006年には95%だった。

(* 1998年から2000年までの間にも大幅に出生数が減っているように見えるが、これは事実だろうか?それともデータの違いが影響しているのだろうか?要確認。)

【米国】
Natoli, J.M. et al. Expected, prenatally discovered, and born cases of Down syndrome in Denmark during the period 1980-1998. Prenatal Diagnosis. 32(2): 142-153(2012)

データソース:PubMed, Cochrane, EMBASE(科学論文サーチエンジン)で検索された、1995年から2011年までに発表された英語論文。
検索語にひっかかった6570本の論文から、ダウン症診断後の中絶率に言及しているものは24件。

結果:考察した論文における中絶率は、人口ベースの調査では、61%から93%。病院ベースの調査では、60-90%で、従来言われてきた92%よりも低い。また中絶率が低下していることも確認された。論文では、低年齢の妊婦の中絶率も低いことが確認されている。この理由としては、福祉が充実したことで妊娠を継続しやすくなったことと、羊水検査の安全性が高まったことで、これまで検査を受けなかった中絶を考えない人も検査を受けるようになっていることが考えられる。また、年齢やエスニシティーによる中絶率の違いも確認されており、ひとつの調査だけでアメリカ全体でのダウン症を理由とする中絶率を検討することはできないということも、確認された。

(メタ分析であり、私には難解だった。データからどのように、中絶率の低下を指摘できるのか、再度読まないとわからない。ただし、国際的な調査でも、欧州に比べて米国は、ダウン症を理由とする中絶が少ないと言う結果が出ているらしい。興味深い。)

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アメリカの最新データは、Skotko氏と同じくその他の論文のmeta分析であることもあって、十分な理解ができませんでしたが、Skotko氏と同様の指摘をしているのは、イギリスとオランダのケースと言えそうです。デンマークのケースは、特に、2001年と2008年を比べると、にわかには信じ難いほどのダウン症出生数の減少を示しています。

いずれにしても、国によって、出生前診断後の選択の傾向に違いがあるということは、明らかなようです。
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by m_mw | 2012-07-05 11:39 | 考えていること・thoughts
ニュージーランドのSavingDown's による活動にも表されているように、
ダウン症をめぐる状況は、切迫していると言っていい。

この状況を2009年にアメリカの医師Brian Skotko氏がまとめている。
彼は、1996年から2009年までに発表された14報の論文をレビューし、出生前スクリーニング検査及び診断の普及により、ダウン症の出生は確実に抑制されていると結論した。(図参照)

この傾向は2011年に発表された、ダウン症を対象とした無侵襲的検査技術の登場によって、
さらに高まると考えられる。

その上で彼は、多くの国で性別を理由とする中絶が「性別差別的sexism」として禁止されているのに対し、同じく染色体の「違い」であるダウン症を理由とする中絶は許されていることを、矛盾として指摘している。

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ダウン症の原因は染色体21番が3本あることだ。
21番染色体を3本持つ人は、2本持つ人に比べると少数である。
約1000人に1人の割合で存在すると言われる。

さてしかし「少数」であることはイコール「異常」なのだろうか?
そして「異常」のある生命は、生まれるに値しないと考えられても「当然」なのだろうか?
もしそうだとすれば、社会において遺伝学的に少数者となる可能性のある生命はどれも、生まれるに値しないのは「当然」と考えられることになる。

このような考え方を、私たちは許容できるだろうか?
許容することにはどのような問題があるのだろうか?
許容しないためにはどのような道があり得るだろうか?

やはりもう一度、しかし早急に、私たちは、こうしたことを考えていかなくてはいけない。

図出典:Skotko, B. "With New Prenatal Testing, Will Babies with Down syndrome Slowly Disappear? Arch Dis Child 94(11) 2009.
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by m_mw | 2012-07-04 14:58 | 考えていること・thoughts
2012:国際刑事裁判所での審査が開始されたとの発表
         
2010:SavingDownsによる活動開始

2010: 60 MINUTESの番組『Down but not Out

  レポーター:"Don't you see the right of women?"
   Savingdonws代表 :"I see the responsibility."
        
レポーター :"What do you want to say to parents who learned that their fetus has Down's syndrome"
ダウン症の青年: "........... Uhm, Do not afraid, yes."

2007: National Prenatal Screening Programme for Down's syndrom and other conditions 開始。
イギリスのプログラムを踏襲。

2005: NZ 産科医による提言
 「出生前検査が自費診療となっているために妊婦の受検数が少ない。」
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by m_mw | 2012-07-04 14:12 | 考えていること・thoughts
ニュージーランド。
国土面積268680㎡、人口427万人。
南太平洋に浮かぶ自然豊かな小さな島国で、今、ある戦いが進行中だ。

Saving Down’s syndrome

そう名付けられたこの戦いは、この国で年間50人生まれるダウン症児の親の一人、Mike Sullivanによってはじめられた。
彼らは、国が2007年に設置した『ダウン症とその他の障害のためのスクリーニングプログラム』が、国際法で禁止されている特定の集団を対象とした抹殺にあたるとして、ニュージーランド政府を国際刑事裁判所に訴えたのだ。(Reference number OTP-CR-178/11)

彼らの訴えはこうだ。

「国は明らかに、ダウン症児の出生数を減らすことを目的としてスクリーニングプログラムを計画し、このプログラムは現状において実際にダウン症児の数を減らしつつある。これは集団の抹殺に他ならない。」

その証拠は国の計画文書の中にある。
非公開の文書の中で、国は、このプログラムを提供する方がダウン症の胎児を中絶するよりも安いと明言している。

ニュージーランドでは、昨年からこの問題がテレビや新聞を通じて報道されてきた。

・July 3 2012 Morning
・June 30 2012 3news
・June 12 2012 "Down but not out"

ただし彼等は「出生前診断」そのものに反対しているのではない。
彼等は出生前診断が、ダウン症の胎児の出生を助けるためにではなく、予防するために使われることが、当然視されることに疑問を提起している。

彼等は、出生前診断は、生命を保護するために使われるべきだと主張する。

「なぜダウン症が中絶の理由となるのか?」

ダウン症の子を持つ親自身がこうした疑問を提起する中で、
同様のプログラムは、ダウン症の数を減らすという予測の中、欧米、アジアの各国で行なわれている。
もとをたどれば、明らかにダウン症の出生を予防することが目的とされている場合も少なくない。

そして今、母体血を用いたより簡便でより「安全」な出生前診断技術の臨床応用が世界各地ではじまっている。

小さな国の小さなグループによるこの戦いが、世界に投げかける問いは大きい。

日本も含めた国際社会は、彼らの訴えに真摯に耳を傾けるべきだ。
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by m_mw | 2012-07-03 17:43 | 考えていること・thoughts