病院の外の「ダウン症」

2003年、オーストラリアの新聞に、"Tuesday's Child"と題した手記が掲載された。

ダウン症の子を生んだ直後の病院でのできごとを母親の視点で記した、心に残る文章だった。

そこにはこんな情景が綴られていた。

「私と彼女だけならば、彼女とふたりきりならば、私たちは、生命のはじまりから続くリズムの中に閉じ込められた共生生物のような、母と子でいられた。そこへ白いコートと聴診器の医師たちがやってきて、彼女をつっつき、顕微鏡で彼女の余分な染色体を見るために、カミソリでかかとを削って血を採るのだ。」(Evans, 2003)

ここには、母が「見るもの」と医師の「見るもの」とには違いがあるということが、詩的に表現されている。

けれども、医師の「見るもの」と私たちの「見るもの」は、往々にして混ざり合う。
著者のEvansは、母親の「生」の視点が、医学の視点との間で常にゆらぎ、見えたと思ったものが見えなくなり、見えなかったものが見えてしまう、視点の不確かさも、書き記している。

それはまるで、老婆の中に少女が見えるというあの有名な錯視の絵を見ているかのようだ。

Evansは、手記に記すことで、ゆらぐ視点の中で母の目に確かに見えたものを留めようとしたのかもしれない。
そして、そうだとすれば、ダウン症に限らず障害を持つ子の親が子について表現する行為には、同様の意味があるように思う。

多くの場合は生きるための必要として、医学の中で常に測られ、切り取られ、分類される子ども達に対して、
医学に浸食されない視点が、たしかに自分の中にあるのだという事の確認。

こうした確認は、しかし、障害を持つ親だけに求められるものだろうか。
医学の視点との間で、私たちの社会の「人を見る目」も常に、ゆらいでいるのはないだろうか。
あらゆる生き辛さに「病名」が付く現代において、医学に浸食されない視点を、私たちの社会は失わないでいるだろうか。

障害を持つ子の親の表現する「視点」は、私たちの「視点」への問いかけとなる。
その視点は、生まれてくる人を選ぼうとする視点でもある。

イギリスの親達が主導したShifting Perspectiveには、そんな問いかけがシンプルに表現されている。
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by m_mw | 2012-07-12 17:47 | 考えていること・thoughts