『楽しい終末』池澤夏樹 (1997)

b0223593_1044993.jpgああもうこれは終末だ。
多くの人がそう思ったであろう3.11から1年半が過ぎた。
東京で、日々の生活を営んでいると、メディアを通じて繰り返される映像も、その映像について恐怖と驚きと悲しみのない交ぜになった感情で語り合う人々の姿も、記憶の遠方に位置付けられつつあるのを感じる。

だからなのか、最近ようやく、昨年8月にiアプリとして公開された池澤夏樹の『楽しい終末』を開くことができた。池澤を愛読する者としての義務感から、公開直後にダウンロードしたものの、「序」ですでに目眩を感じ、その後長い間、開くことができなかった作品である。

この作品について、多くの読者が「重い」と評しているが、私の感じた目眩の内実も「あまりに重い」だったように思う。しかしそこには、単なる内容の重さだけではなく、「預言者」的振る舞いに対する「嫌悪の感」も確かに加わっていた。「はじめに」で、池澤自身が「予言者となるつもりはなかった」と述べているにも拘らず、当時は池澤の行為が予言者のそれに見えた。

多くの人命が失われた。私たちは生き残った。生き残った今することが、終末を語ることなのか?失われた命は、終末の先陣だったとでも言うのか?

地下鉄に揺られながら、血の上った頭で、アプリを終了したことを思い出す。

しかし、今回ようやく落ち着いた気持ちで紐解くと、この作品の重要性を実感する。特に、「終末」を検討するためのはじめの素材として、絶滅した部族の物語をとりあげる工夫には、あらためて脱帽する。脱帽すると共に、終末を向かえた先人が、身体的欠乏の中で想像力をも欠いていく様に恐れを抱いた。

その渦中にいる人々がいかに「楽しく」とも、それはやはり欠乏に他ならない。これが池澤の警句だろう。

この作品の中で、池澤は「原子力」以外にも、我々を終末へと導く事例をいくつか挙げている。そのどれもが、私たちが何となく「そうなのではないのか?」と心の片隅で一度は思ったことのあるような事柄だ。しかし、2〜3年の調査に基づき積み重ねられた事実が、この作品に説得性を与えている。作品を科学的にしているとも言える。じゃあ文学じゃなくて科学でいいじゃないか、という考えがあるかもしれない。実際おそらく、ひとつひとつの事柄については、学術誌のどこかで検証されているのだろう。しかし、それらを「人間についての物語」としてまとめることができたのは、これが文学の領域にあるからだ。この作品によって私は、文学の意義を確信するに至った。

多くの実務が必要とされる時、それに携わるひとりひとりが、ミクロ、マクロな「想像力」を保ち続けることができなければ、人は実務に必ず付随する権力闘争の中で目的を見失うだろう。

文学はその「想像力」を培い保つ場を提供している。

これからは『科学技術白書』と共に文学を。

再稼働も決まってしまった今、結構真剣に、そう思う。
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by m_mw | 2012-06-20 10:35 | 読書録・reading memo