角田光代『かなたの子』文藝春秋(2011)

b0223593_10464173.jpg角田光代のファンである。
現代日本の病的で雑駁な人間模様を、ポップにもビターにもシリアスにも描くことのできる、言うまでもなく今を代表する女流作家の一人だ。
しかし、短編集『かなたの子』には、彼女のこれまでの作品とは異なる性質を感じる。簡単に言ってしまえばビターに過ぎる、苦い後味だけが残る作品群となっている。

この作品群で角田が描くのは「あの世とこの世の境」であり、「正気と狂気の境」である。これは、多くの文学のモチーフともなっている題材だが、ここに中絶、嬰児殺し、家庭内暴力、虐待、いじめなどの社会問題を関連させている点に、角田の独自性がある(嬰児殺しを題材とする『前世』で描かれる時代や場所は不明だが、貧困による嬰児殺しが慣習化していた時代の日本の一村と思われる。ただし現代においても、根源的には貧困を理由とする嬰児の遺棄は繰り返されており、作品の時代と現代とはつながっている。)

読後に感じることは、「この人たちにとってのあの世がこの世の救いとならないのはなぜなのか」ということだ。

物語の登場人物たちは、誰も、苦しみから解放されない。物語は彼等の孤独な苦しみの内実を確認するだけだ。はじまりの二作『おみちゆき』や『同窓会』は、『おみちゆき』で主人公が目の当たりにする、生きながら棺に入れられた僧侶の現世への未練に代表されるような、暗く重たい孤独の苦しみが描かれる。そう。彼等は皆一様に孤独だ。家族がいる、級友がいる、登山仲間がいる。けれども、そうした人々が彼等の内面に寄せる関心はほとんど描かれない。どの作品も主人公の視点から外れることがないので、それは、主人公自身の関心の表れである。周囲が自分に持つ関心への無関心と言えるだろうか。ごくわずかに表れる時にも、『道理』の朔美が主人公の敬吾に対して持っていたのかもしれない(と敬吾が最後に気付く)病的な関心の形をとってしまう。そうした孤独な主人公の見る「あの世」は恐怖の対象ではあっても、救いの源ではない。あくまでも夫の視点で描かれる『闇の梯子』の中で、妻がむしろ「あの世」に引き込まれ、次第に主人公をも誘うように、孤独は人を現世からあの世へと引き込んでいく。だからこそ、主人公達にとって「あの世」は恐怖なのではないか。

さて、前半の四作の主人公が男性だったのに対して、後半の四作の主人公は女性である。女たちは「産む」。そのことを中心に描かれる四作、『前世』『わたしとわたしではない女』『かなたの子』『巡る』では、過酷な現実の中で、「あの世」からの連なりの中で「現世」に生まれ来て死に行く子等に、「許されている」という感覚を、主人公達が朧ながらも持つ場面が描かれている。「産む」ことは、苦しみの源でもあり、ひとつの「救い」でもある。しかし、女たちもまた、「あの世」と「この世」とが交わる点を体内に宿すからこそ、「あの世」と断絶した「この世」の苦しみをより現実的に引き受けているかのようだ。彼女等の苦しみに関心を示す他者は、作品の中にはやはり表れない。

角田は確かに、この短編集で現代日本の病理の根源を鋭く付いているのかもしれない。それは、多くの優秀な若者を宗教の名を借りた狂気へと導いた事件の原因にもつながる。角田は、この病理の原因を、よく言われるような個人の他者への無関心や、他者からの無関心への絶望、としては描かずに、個人の他者からの関心への無関心として描いているのではないか。だとすれば、その指摘が私たちに与える示唆は大きい。

読後感の悪さは、だから、作品が、現実の社会の息苦しさを写実し過ぎていることによるのかもしれない。

 しかしこの苦しさに解決はあるのか?
 作者の応えを聞いてみたい。
[PR]
by m_mw | 2012-06-18 10:36 | 読書録・reading memo