3.11の求めに応じる

アンサウンドな議論を、アンサウンドだとあざ笑っている間に、「現実」は確実に積み重ねられ突如その本性を露にする。両派を共に驚愕させる形で。そして両派は「現実」にサウンドの何たるかを突きつけられ決断と行動を迫られる。しかし長年の議論の末、残されているのはアンサウンドな儀礼と懐疑。そして現実と文化との両方のために、我々が既に破滅への道の終局に到達しつつあるという恐れの感覚が、我々を支配する。ここ最近「我々」という連帯の意識を拒否してきた人々でさえ、この恐怖を前に自分たちが絶対的に「我々」から逃れられないということを認めざるを得ない。しかしもはや「我々」には「我々」として選びうる選択肢が残されていない。現実は「打開」を求める。「我々」はそれに応じる以外にない。現実の求めに応じきれる程の力が「我々」にあるのか否かは知れない。「我々」はあると信じて進む他にない。「我々」の力の科学的証明は、未来においてのみ可能である。一方で「我々」は過去においては未来であった今、過去において不可能であった「我々」の力の限界の証明を行っておかなければならない。「我々」は、知ってか知らずか、「我々」にはその力があると「信じて」進んで来た。そして現実はそれが不可能であったことを証明した。証明したのだ。そのことを、「あるがままに」受け止める技量が、今「我々」には必要だ。それが、「我々」が依って立つべきとされてきた、しかし再帰的批判にさらされてもきた近代的合理性から受け得る、最大の恩恵であるはずだ。
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by m_mw | 2011-04-26 10:08 | 考えていること・thoughts